カテゴリ:雑考( 5 )

4月15日に放送された『情熱大陸』で、安藤美冬さんというノマドワーカーについて知った。ノマドワーカーとは、遊牧民を指す「ノマド(Nomad)」のように、本拠地を特に持たずに仕事をする人のことを指すそう。安藤さんは自宅とWifiが使える近所のカフェを主な仕事場として、インターネット上で仕事上のコミュニケーションを行っている。集英社の雑誌編集出身だが、肩書きは編集者ではなくただ「フリーランス」で、ノマドワーカーとなってからの仕事内容は編集業務そのものとは無縁であるとのこと。主にTwitterを通じて潜在的なビジネスパートナーを探し、ソーシャルスクールの運営、不動産開発に関する助言など、多方面での業務に繋げている。編集者がよく取ると思われる「フリーランスの編集者」という道ではなく、「自分が関わったことのない分野での活動」をテーマとして自身で運営する会社を経営しているそうで、手がけるビジネスの範囲は今後広がっていきそうだ。

安藤さんの「セルフブランディングを通じ、個人として仕事をする」というスタイルや、「意見をはっきり伝えることで、関わる仕事に付加価値を与える」というキャラクターはとても魅力的に映ったが、一方でこの人が何を仕事としている人かが掴みづらいという面も、情熱大陸の放送を観る限りではあった。最も強く感じたのは、安藤さんが「ノマドワーカーというスタイルを通じて仕事をしている」のではなく、「ノマドワーカーであることそのものをアピールすることを通じて仕事をしている」のではないかということ。安藤さんがライターとしての業務をソーシャルネットワークを通じて出版社と一緒にやっているのなら、それがノマドワークであると分かる。しかし、ノマドというワークスタイルの紹介を軸として仕事をしているのであれば、ノマドが手段でなく目的になってしまう。ノマドワーカーであることのみを売りにしてノマドワークを続けることは、ノマドという言葉やワークスタイルの提唱にはなっても、安藤さん自身の専門性や能力を磨くことにはなり得ないのではないか。

もしかすると上記は自分の誤認で、放送時間30分の情熱大陸の場では安藤さんの発した本質的なメッセージが明確に伝わらなかったのかもしれない。ただ、放送を観て、インターネットでご本人のウェブサイト等を閲覧した限りでは、ノマドワーカーというワークスタイルを世間にアピールすること以上の価値を与える仕事をしているようには感じられなかった。究極的に例えれば、ある個人が小説家としてのワークスタイルを世間に向けて発信する一方で、小説そのものは書いたことがないという状態に似ていると思う。ただ、事実として自分自身がノマドワーカーの正確な定義や安藤さんの活動の全容を知らないという前提があるので、より明確な理解ができるよう努めたい。
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by UbuntuK | 2012-04-24 08:21 | 雑考
週末になると勉強の負荷が落ち、図書館も早く閉まってしまうので、平日に比べて疲れ方が足りず、よく眠れなくなる。今日もその状況に陥ってしまったので、ベッドに横になりながらiPhoneで去年の夏の甲子園の動画を観ていた。Youtubeだと10分以内の長さの動画がたくさん転がっているので、バスの待ち時間や眠れないときなどはよく動画を観て暇を潰す。よく観るのは漫才と甲子園のドキュメンタリーなどで、短時間で笑ったり感動したりできるのでとても良い気分転換になる。

既に何度も観たものなのだが、今日は2011年の夏の甲子園でベスト16まで進んだ秋田・能代商業の動画を観ていた。この高校を特にひいきにして観ているのは、推薦枠や有名な指導者を持たず、ほとんど地元能代市出身の選手で構成されているからだ。野球エリートが揃った高校の野球はもちろん面白いのだが、熱闘甲子園やニュース番組の紹介VTRなどで紹介されたとき、スター選手不在の中から努力で県大会優勝を勝ち取って甲子園に出てきたチームの方が、ドラマがあって熱中できる。

能代商業はまさにそういうチームで、身長171cm、57kgという一般の高校生よりも少し小さい体格のエースである保坂祐樹という投手が、県大会緒戦から全て完投して勝ち上がってきた。この投手は体格のハンデもあり、急速が130kmほどしか出ないのだが、キレのあるストレートでコーナーや内角高めを突き、スライダーを効果的に利用して野球エリート揃いの強豪校の打者を三振や凡打に仕留めてしまう。相手チームの投手には超高校級と目されるような選手も含まれていて、140km台後半で投げてくるのだが、打線が辛うじて勝ち取った数点の得点を見事に完封や完投で守りきってしまう。

この保坂祐樹という軟投派左腕は、2010年の夏の甲子園で2年生エースとして全国大会に登場したのだが、鹿児島実業相手に2回でノックアウトされ、チームは15-0で惨敗するという経験を持っている。1年間その悔しさを忘れず、同郷で青山学院大からヤクルトに進んだ石川雅規という、同じく軟投派の左腕の配球を研究し、全国クラスの強力打線を抑えられるだけの力を1年間で身につけたそうだ。

自分の失敗に真摯に向き合い、それを克服するために努力し、偉業を成し遂げた精神力はすさまじい。しかも、エリート揃いでない高校である故に起きる数多くの致命的なエラーを受けてピンチになっても、笑顔を絶やさず内野守備陣を自ら盛り立てる。また、エリート揃いでないだけに、打線も打順上位の選手を除いては貧弱なのだが、3番打者として自ら打点を稼ぎ、勝利に結びつけてしまう。野球センスはもちろん抜群だとは思うのだが、決して速くはない投球で打者を打ち取れるようにピッチングを磨いた努力を惜しまない姿勢と、野球に対するインテリジェンスにもの凄いものを感じる。加えて、ピンチにもめげないだけでなく、周囲に気を配れるだけの精神力も持ち合わせている。

保坂祐樹選手は県内のトップ校を狙える学力を持っていたものの、野球がやりたいということで能代商業に進んだそうだ。卒業後は推薦入試で合格した中央大学の準硬式野球部に入学し、勉強を優先させるそうだ。教員免許を取得して、高校の野球部を指導するという目標があるのかもしれない。どこまでも芯が通っていて、大人びた考えのできる選手だ。インタビューの受け答えもしっかりしていて、グランドの中でも外でも好感が持てる。

ブログの本来の趣旨と関係ない投稿だったが、実物を映像で観たということもあり、これまでに読んだ開発系や金融系のどんな本の著者のメッセージよりも感動したので、書いておくことにした。一回り年下の人の姿勢から学ぶのは少し情けないが、少しでも近づけるよう努力したいと思う。
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by UbuntuK | 2012-02-11 19:42 | 雑考
大きな山場が迫る中、昼はそれに向けての準備とグループレポート&プレゼン準備、夜は同級生が帰る場所のない哀れな留学生のために招いてくれるThanksgivingの食事会に出かけるという日々が4日間ほど続く週末になっている。山場に対しては、自分がこれまで長く目標として持ち続けて来たものなので、全力で取り組みたいと思いつつも、若干の二日酔いや日々のグループワークに気を取られてなかなか集中できないでいる。結局はどんな大事な物事が待っていようと、グループワークで自分が受け持っている責任からは逃れてはいけない訳だし、そういったものを簡単に放棄するような人が山を越えることなどできないと考えるようにしている。

ただ、こういう重要な局面では1人で悩み考えることに限界がある。大きなプレッシャーの中で自分がそれに強い精神力で立ち向かわなければならないし、簡単に誰かに甘えるようでは大人としてあまりに未熟としか言いようがないだろう。他の人達がこういう場面でどのように自分の精神状態を保つのか興味深いところではあるが、自分自身については、心の中にもう1人の自分を置くようにしている。その人物は昔ダウンタウンが「ごっつええ感じ」で多用していた"ちっこいおっさん"という人物で、何かと口うるさく自分に対して叱咤激励してくれる。

自分がやるべきことをさぼっているときなどは、「お前の人生だぞ。お前が自分で何とかしろ。」とそのおっさんに心の中で言わせる。自分が物事をうまく進められていないとき、何か別の物事や他人のせいにしようとした場合には、「てめえの問題だろ。他人のせいにするな。自分で解決しろ。」と言わせる。本来は一流のアスリートのようにきちんと勉強と経験を積んだコーチがいて、客観的な目線で厳しく指導してもらうのがベストなのだが、自分はそんな身分ではないので、可能な限り他人の客観的なアドバイスを得ようとしつつも、自分で精神面をコントロールするようにしている。

誰にとっても日常は忙しく、自分の目標やそれを達成するための大切なプロセスに時間を割くことが難しいが、その中でも最大限の成果を得られるよう、自分の精神力を強く保ちながら乗り切って行きたいと思う。ちっこいおっさんとともに。
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by UbuntuK | 2011-11-26 06:51 | 雑考
自分はあまり高潔な人間ではない。開発業務に関わることを通じて貧困削減に貢献したいと思っていることは事実だが、そのための手段にこだわらないということはできない。例えば、途上国の所得向上に貢献できるプログラムをNGOと世界銀行が行い、どちらもその貢献度が同じ場合、自分は間違いなく世界銀行側で働くことを選びたい。給料の差にはそれほど固執しないが、ネームバリューのある機関で仕事をしているという充足感を得たいという欲求が強くある。

最良の結果を得るために、最良の手段を選んで業務に関わることが本来あるべき姿であり、その場合に勤務先のネームバリュー等はどうでも良いと思えないといけないはずだが、自分にはそれができない。理由は、自分が他人に対して「こんなに立派にやっています/なりました。」というメッセージを伝えたいという欲が強くあるからだ。本当に強い人であれば、貧乏であろうと人から笑われようと自分の信念を貫いて行動するのだろうし、理想とする仕事が世界銀行や国連のような公的機関でできないのであれば、ロシナンテスの川原医師のように、妻子を貧乏に追いやっても自分でNPOを作ったり、マザーハウスの山口絵里子氏のように20代半ばにしてバングラディシュで起業してしまったりできるだろう。

自分にはそこまでの覚悟と勢いを持って開発業界に身を投じる勇気はない。これしかないと信じて突き進める人をうらやましいとは思うが、自分にはそれだけの情熱がないし、それを持ちたいとも思わない。自分が考えられるのは、自分がこれまで蓄積してきた知識や能力を使って、できるだけ大きく立派な仕事がしたいということだ。そこには無欲の献身といったことよりも、名誉欲に絆された一部自己中心的な欲がある。こういった考えはある種うしろめたくも思えるが、自分はこれを正当化してしまいたい。草の根的に村々を回って井戸掘りの手法や農業技術を伝える専門家や、先進国でホームレスや老人の支援に当たるソーシャルワーカーには自分の能力は適わないのだし、そうであれば自分の持っている力を最大限に発揮できるであろう開発系国際機関という場所で開発に貢献することが、自分にとっても社会にとってもベストであると考えたい。

自分には何もないところから組織を作ったり、単身危険地域に乗り込んでその地域に貢献するだけのエネルギーはないし、今後も持ち得ないだろう。ただ、その中でも自分がここまではやりたいという仕事に賭ける意志を大事にして、思った方向へキャリアを築いていけるようにしたい。そのキャリアの中には、自分が接してきた周囲の人達から「立派になったね。」と言われるようなメルクマールを必ず含ませておきたい。ずっと観たいと思いながら観られていなかった情熱大陸の過去放送分を観る中で、強い意志に駆られてそれぞれの世界の第一線で活躍する人々の日常を感じてこういったことを思った。

追記: 引用元がおかしいのだが、今大学院で就職活動をしている自分がよく思い出す言葉があるので掲載しておきます。人と違う生き方をする人は、勇気を持つとともに相応の覚悟も持たなければならない。自分もそれだけの勇気と覚悟を持って選ぶ生き方を見つけられればと思う。

「人と違う生き方はそれなりにしんどいぞ。言い訳ができないからね。」
(出典: 映画『耳をすませば』、主人公雫の父)
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by ubuntuk | 2011-02-22 16:32 | 雑考
1月4日に行ったニューヨークフィルハーモニックのコンサートの日に感じたホームレスに対する自分の振る舞い方、態度の取り方について、少し考えることがあったので書いておきたい。自分は立派な慈善心を持ちたいという意識は毛頭ないし、ホームレスを蔑んで自分の心の糧にしたいというような歪んだ気持ちを持っている訳でもない。ただ、日本よりもホームレスという存在が自分の生活に近い場所にいる中で、そうした人達を自分がどう認識するべきなのか分かりかねているので、印象に残った事例について記述し、少し考察したいのだ。

コンサート当日は、ニューヨークフィルが活動しているAvery Fisher Hallというところに開演時間よりもかなり早く着き、予約したチケットの受け取りも済ませたので、時間を潰すためにホールのロビーにあるカフェスペースにコーヒーを買って入った。カフェは店員が席へ案内スタイルではないので、誰でも、何も買わなくても入ることができる。それ故ホームレスが入って居眠りしている場所もあった。自分は席を探そうと歩いてみたのだが、早い時間からかなり混んでいて、浮浪者の横以外席を見つけることができなかった。さすがに抵抗はあったのだが、右隣の人達はスペースを空けつつも浮浪者の隣に席を取っていたので、勢いで座ることにした。

開演までは2時間程度あったので、着いた席で本を読んでいたのだが、ホームレスの臭いで途中からその場にいるのが辛くなってきた。一方で左隣の中年女性グループに待ち合わせた友達が合流する度に場所を広げてくるので、いよいよホームレスと自分との距離が近くなり、臭いは最高潮に達した。こういうときに席を立つと、ホームレスから逃げたような気がして嫌だったので、開演30分前までは我慢してそこに座り、その後席を立った。席を立った後2階へ上がる階段からその席を見ると、自分の隣にいた中年女性グループもあっさり退散していた。自分という盾がなくなって耐えられなくなったのだろう。さっきまで自分の側へ厚かましく場所を広げてきたくせに、と思った。「オバタリアン」という言葉は死語だと思うが、中年女性の横柄ぶりは世界共通だと思った。

それにしても、こういう場面でホームレスに対しどう振る舞うのが適切なのか。臭いや、それ以上に重要な身の危険から自分の身を守るために相手から遠ざかるというのは何ら道徳に反することではないし、必然的なことだと思う。そういう意味で、この人は臭いし汚いから近寄らないでおこうというのは自然発生的な感覚で、それ自体倫理に反するものではないはずだ。では何故「自分が席を立ったら負けな気がする」と思ったのだろうか。相手は寝ているホームレスで、自分の周りに誰がいようと気にしなかっただろうし、自分が来るまではその人が避けられることによってできた大きなスペースがあった訳だから、本人も特に気にしていなかったかもしれない。

そもそも、そのホームレスは外が寒い中快適な館内で寝る場所を確保できただけでありがたいと思っていたはずだから、そこで他の客と同様に扱われたい等とは全く思っていないはずだった。強烈な臭いの中その人の側を立ち去らないことは、特にホームレス当人の尊厳を認める行為ではないし、席を立つ立たないで自分の倫理観が試される訳でもないはずだ。ホームレスを見かけることは大学院のあるボストンでも多くあるが、こういう状況でホームレスと近接した状況になったのは初めてだったので、改めて考えさせられた。修道女やホームレスのためのボランティアとして働いている人達等は、ホームレスとどういう気持ちで向き合っているのだろう。題名通り雑考に過ぎないが、また機会があれば、アメリカ社会で触れるこうした事象について書いていきたい。
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by ubuntuk | 2011-01-05 09:16 | 雑考
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