カテゴリ:カルチャーショック( 13 )

締切の感覚の投稿で書いた、プロジェクトファイナンスの試験が未提出だったバングラデシュ人の学生と今日立ち話をした。試験の提出について聞いたところ、未済とのことだった。今学期の課題に追われて手がつけられていないそうだ。同じ授業を履修していたスリランカ人の学生もまだだと言う。やはり締切を設けてもらわないと書けないのだそうだ。学位取得のための所定単位数取得期限が迫っているため、何とかしないといけないと焦っていた。自分を含め、修士論文の最終稿提出期限が迫っている多くの学生と立場は同じだと思うが、1学期半前に受けた授業の試験に今取り組むことの方が、現在進めている修士論文を完成させることよりも難しいだろう。締切があやふやだったという一点により、たった0.5単位の授業の単位取得が泥沼化してしまっている。何とも皮肉な状況だ。
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修士論文の最終版提出期限が4月30日になっていることもあり、同級生に合うと論文の進捗の話をすることが多くなった。これは春休みに入る前の話なのだが、Kim Wilsonというマイクロファイナンスの教授を指導教官としている学生から、「あの人は12月16日を提出期限に設定していたから、前学期中に提出した。」という話を聞いた。冬休みを挟まず秋学期中に仕上げるのはかなりの労力を要するので、間に合わせたことに感心しつつ、春休みは何をするのかと聞いたのだが、「秋学期に提出しなかったプロジェクトファイナンスの期末試験をやる。」という答えが帰ってきた。

プロジェクトファイナンスの授業は秋学期の前半で終わる0.5単位の授業で、試験提出の締切は11月2日だった。それを春学期の前半が終わるまでやっていなかったのだそうだ。試験はシングルスペースで5枚程度+エクセルのスプレッドシート1枚という、どう考えても修士論文より手間の掛からない内容なのだが、そちらは後回しにしていて、成績がSuspendedになっているとのことだった。本人曰く、「締切を設定してくれないと頑張る気になれない。」とのこと。実際試験の提出期限はあったのだが、教授の寛大な措置により、実質的には「いつでもいい」ということになっていた。

それにしても、締切を決められれば60枚-100枚が指定されている修士論文をさっさと書くことができて、決められなければ6枚程度の試験を提出できないというのが驚きだ。論文を提出したのであれば冬休みは丸々試験に充てることができただろうし、春学期が始まってすぐの授業の課題が少ない期間に書くことだってできた。精神的に追い詰められないと、ここまで人間は悠長になってしまうのかと思った。もし自分が当人の立場だったら、成績がSuspendedになっていることに恐れおののいてしまうが、外国人学生は教授や大学院の措置にフレキシビリティがあることを知っているので、それを思い切り利用しようとする。試験や課題提出の締切は、これにより大抵の授業で予定よりも1週間程度延びる。

プロジェクトファイナンスの試験関連では、冬休みに図書館で会った学生が「これから試験をやる」と言っていてとても驚いたのだが、もっと上手の者がいた。この授業の成績が出るのはとても遅かったのだが、それは試験が全部提出されるのを教授が待っていたかららしい。そして、冬休みが明けても試験を提出していない学生についてはあきらめてSuspendにして、試験提出済の学生の成績を評価したようだ。4月も10日が過ぎ、その学生もプロジェクトファイナンスの試験を提出したのではないかと思う。今度会ったら聞いてみたい。心の中では、「夏休みにがんばるよ」と言ってもらいたいと思っているのだが、さすがに本人も卒業したいだろうし、それはないと思う。
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今年度は図書館で10才ぐらいの女の子が1人PCに向かっている姿を頻繁に見かける。最初は飛び級に飛び級を重ねた天才少女がFletcherの1年生として入学して来たのかとと思っていたのだが、実はFletcherの1年次に在籍しているシングルマザーの学生の娘だということが数ヶ月して分かった。平均入学年齢27才のFletcher Schoolに10才ぐらいの子供が入学できるはずがないのだが、事実が面白い方向に出るように妙な期待をかけてしまっていた。お母さんは子供の学校が終わった後の時間帯に授業を取っていたり、グループワークのミーティングがあったりするようで、その間子供は図書館のPCでウェブゲームをやっている。

日本人的感覚からすると、学童保育に預けたり、祖父母に面倒をみてもらったりして一人で過ごさないよう気遣うべきと考えてしまうのだが、ここはアメリカなので、その辺りはもっとフレキシブルに対応しているようだ。図書館で学校の宿題をやっていればまだ良いのかなとは思うが、ずっとウェブゲームをしているので、勉強の方は大丈夫なのかなと思ってしまう。これも宿題が大量に出る日本の小学校と違い、こちらの学校ではあまり宿題が出ず、学校が終われば自由にしていていいということなのかもしれない。初等教育は、アメリカよりも日本の方がずっとしっかりしているし、教育に対する親の考えもシビアで、全体的に優れていると思う。大学・大学院の教育になると急にアメリカの方が厳しくしっかりしたものになるので、高等教育は日本の方がもっとがんばらないといけないと思う。
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また今さらのカルチャーショックだが、アメリカのスターバックスとダンキンドーナツの接客の質が全く違うことに驚かされる。家の近所や大学最寄りのバス停近くにはスターバックスがなく、ダンキンドーナツだけが唯一利用可能な店舗なので使用しているが、店員の態度がものすごく悪いし、注文を自分で勝手に解釈して間違える。特にドーナツの注文は3回連続ぐらいで間違えられた。

恐らく給与に関係しているのだと思うが、ダンキンドーナツはほとんど黒人の店員で回している。人種によって人格やサービスの質が違うというのは偏見だが、少なくとも教育水準の一般的な違いは存在すると思う。スターバックスはほどんと白人で回している。言葉遣いの丁寧さはスターバックスの方がはるかにきちんとしているし、最後にきちんと目を見て笑顔でHave a good day.と言ってくる。ダンキンドーナツの場合は買ったものを入れた袋の口をぐしゃっとしてポンと放り出し、レシートをこちらに目を向けずにほらよと渡してくる。平日はほとんど家と大学の往復なので他の店とダンキンドーナツを比較しようがなかったが、土曜日に久しぶりに最寄りの地下鉄駅前のスターバックスを利用し、2チェーン間の接客の質の違いに愕然とした。

スターバックスのコーヒーとダンキンドーナツのコーヒー+ドーナツ2つが同じぐらいの値段なので、サービスにまで文句は言えないのかもしれないが、ダンキンドーナツの接客の質は限りなく底辺に近いところにあると思う。日本で同様のビジネスを行っているミスタードーナツや、バイト店員だけで営業しているコンビニエンスストアは最低限の接客マナーを持っていて、どんな薄利多売系チェーンでもここぐらいまではやってくれるだろうという期待感が持てる。アメリカにはそれが全く存在しないので、特に日本から帰ってきて2週間の自分の立場としては、本当に驚かされる。
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2年生になって今さらカルチャーショックも何もないのだが、平日夜や週末に図書館にいるメンバーを見て、インド以東の東アジア系の学生ばっかりだなといつも思う。他の国の人達が不真面目な訳ではなく、皆ちゃんと予習をして授業に来ているのだが、図書館ではなく家や屋外でやっている。特に今は秋にさしかかっているところで昼間はとても暖かいので、白人学生の多くは外のベンチや芝生でリーディングをやったりしている。

外で色々なものが視界に入る中で、とても集中できるとは思えないのだが、皆気持ちよさそうに過ごしているし、土曜日のランニングに来ていた白人の学生も「図書館みたいな暗いところで勉強するのはやなの。家の方がずっと日当りが良くてやりやすい。」と言っていた。勉強に日当りなんて必要ないと自分は思うのだが、どうも気分よく勉強できる場所の感覚が、アジア人と西洋人とで違うらしい。

これは文化の違いなのかもしれないとも思ったのだが、昨日はアジア系が大半を占める図書館の学生10人程度の中に韓国系アメリカ人2人も混じっていたので、もしかすると勉強に適している環境の感覚がDNAレベルで違うのかもしれない。日光浴しながら本の内容を頭に入れられるのが健康面でも勉強の面でも一番効率的なのだろうが、自分にはそれができそうにないし、しても似合わないので、図書館で黙々とやることにしようと思う。
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偏見だと思われるならそれはそれで仕方ないが、インド、バングラデシュ、スリランカから来ている学生について何となく文化的な隔たりを感じるので書いておきたい。出身国でキャラクターをひとくくりにするのは良くないことだと重々承知はしているのだが、色々とコミュニケーションを積み重ねる中で、この地域の学生とだけはどうも納得いかないことが多すぎる。

先ず、去年の10月に行われたASIA NightというFletcherのアジア学生による文化祭のようなイベントでのことだ。オーストラリア人の留学生が、ニュージーランドのマオリ族がやっているハカという踊りを皆で一緒に出し物としてやろうと提案したので、自分も参加することにした。ハカはオールブラックスというニュージーランドのラグビーのナショナルチームが試合前に踊ることでも有名なので、ステージでは皆黒Tシャツに黒短パンというラグビーっぽい衣装で臨もうということになった。

皆敢えて新しい物を買う必要はないということで、持っている人は自分のTシャツ短パンを、持っていない人は誰かから借りるなどして調達するという流れになっていた。何人かはSocial ListというFletcherの学生ほぼ全員が加入しているメーリングリストで短パンを貸してほしい等のメールを送っていたのだが、見つからなかった学生もいたので、役に立てれば思い、自分が持っていた短パンの1つをリハーサルの1時間程前にバングラデシュ人学生に貸すことにした。バングラデシュ人が部屋に短パンを取りに来たときには自分とのサイズの差が分からなかったで、持っていた短パン2つを両方預けて合う方を使ってくれれば良いとこちらが言い、本人も「分かった、10分で片方を返しにくる」と言って自分の部屋へ戻って行った。

すぐ返しに来ると思って部屋で待っていたのだが、数十分待ってもバングラデシュ人が戻って来ない。一方でリハーサルの時間は迫ってきているので、自分自身が2つ渡したうちの1つの黒短パンを履いて会場に向かわないといけない。どうしたものかと思って本人の部屋へ行ったところ、同居していて同じくハカに出るスリランカ人も同じく黒短パンがなかったため、貸してしまったと言う。自分は2枚持っていて片方を自分が履くので、もう片方は使って良いと言ってバングラデシュ人に貸したのに、自分が使うことになっていた短パンを持ち主の許可なく勝手に又貸ししてしまったのだ。リハーサルも迫っていたので、スリランカ人がどこにいるか聞いたのだが、短パンを履いてそのままどこかへ行ってしまったのだと言う。唖然としたが、パンツだけでリハーサルに出る訳にもいかないので、黒短パンと形の良く似た紺短パンを履いてリハーサルに出ることにした。

リハーサル会場に行くと、相変わらず自分の短パンを履いたスリランカ人が「悪かった、今から脱ぐか?」と履いたままの短パンを見せながら言ってくる。さすがにそれを脱いでもらって生温かい短パンを試合後のサッカー選手のように交換する意味も気力も感じられなかったので、そのまま履いておいてもらうことにした。バングラデシュ人もスリランカ人も、どちらも確信犯なくせに無邪気を装う姿が気に食わなかった。結局本番も同じ短パンで踊る形にして、使った後返してくれれば良いと思っていたのだが、使用後の短パンが返ってくるのも遅い。1週間経って危機感を覚えたので、「洗濯しなきゃとか律儀に考えなくてもいいから、都合のいいときに返しに来て。」という暗黙のリマインダーメールを送った。これはさすがに通じたようで、その後無事に短パン2つが洗濯した状態で返ってきた。

上記の出来事はあまり気にしないようにしていたのだが、今日吹雪で中止になったL233 International Finance and Fiscal Lawの補講授業での出来事で、そのことを沸々と思い出してしまった。隣には1980年代風のファッションに身を包み、これまた古風な髭を蓄えた2年生のインド人学生が座っていたのだが、そいつがカバンからノートを取り出すときに自分の右腕に思い切り当たった。インド人ということでその瞬間少し予想はしたのだが、案の定謝りもせず無視して授業を受け続けた。この学生は普段から愛想も悪いし笑いもしない。笑わないのは文化的な違いかもしれないので仕方ないとは思うのだが、せめて迷惑を掛けたときは謝るという習慣は持っておいた方が良いと思う。

それぞれに小さい出来事ではあるのだが、Fletcherに来てから起きた一連の出来事がつながり、「お前ら南アジア人はよぉ。。。」という感情を持つに至った。もちろんそれぞれの学生の良さは分かるし、お互いに刺激し合いながら自分達を高め合えたらとは思う。しかし、日常生活の基本的な部分で他人に迷惑をかけるというのは次元の違う話だ。もし人に迷惑をかけてはいけない、迷惑をかけたら謝らないといけないという文化がないのだとしたら、国際社会で自分達自身がうまくやっていくためにそれを必死で習得すべきだ。

国連フォーラム」というウェブサイトに掲載されている「国連職員NOW!」という職員のインタビュー記事では、「日本人の人に対する思いやり、敵を作らず上手く調整する能力、物事をやり抜く能力といったものは国際社会で高く評価されるものである」といったコメントを多く見かけるが、これはその通りだとFletcherに来て思うようになった。相手の感情や都合を第一に考えて行動するという規範は必ずしも全人類で共有されているものではなく、むしろ日本人特有のものであるように思う。1つ1つの出来事に対する個人的な怒りを捨て、日本人として持っている良識を上手く使って他国の職員を感化できるような職業人になれれば良いと思う。その前にこういった感情の吐露を抑えないといけないとは思うが。
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寮のお湯が止まってしまった。冷水でシャワーを浴びるかシャワーなしで図書館へ寝ぐせのまま向かうか迷ったが、冬だし風邪を引いているということで後者を選択。最近は良くも悪くも見た目をちゃんとしようとか思わなくなってきたので、寂しいことにあまり気にならない。

しかし、冬にお湯が出なくなるという欠陥をあまり気にしないアメリカの公共サービス事情はすごい。まだ今日は天気が良いので思い切れば水のシャワーにも入れるからいいのだが、-20℃近くまで冷え込む日もあるので、そのときにこの事態が重なったらどうしようかと思う。
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アメリカの自動販売機はものすごく性能が悪い。善し悪しの問題以前に、入れたお金が認識されずに吸い込まれたり、本来使えるはずの学生証を利用した購入システムもずっと故障中になっている。試験期間中はかなり図書館の自動販売機にお世話にならないといけないのだが、あまりにも粗悪なオペレーションなのでがっかりしてしまう。特にTuftsのような田舎の大学だと周りにコンビニもないので、学内の自動販売機はとても重要なのだが、その中でこうもひどいと本当に嫌になる。

特に図書館で飲んでいるコーヒーの自動販売機はひどい。日本でも店舗展開しているレストランチェーンのWolfgang Puckが運営しているドリップ式コーヒーの自動販売機という触れ込みなのだが、かなりの頻度で麦茶のような色をした薄いコーヒーが出てくる。最初はまれなトラブルだと思って出てきた麦茶のようなコーヒーを捨て、再度お金を入れて別のコーヒーを購入していたのだが、この間はついに2回とも麦茶が出てきた。不良品を全部捨てているといつまで経っても普通のコーヒーが飲めないと分かったので、結局麦茶のようなコーヒーが出てきたときはそれを麦茶だと思って飲むことにした。

こういったことが何度かあったので、さすがに図書館でコーヒーを買うことはあきらめ、インスタントコーヒーを寮の部屋で作り、ステンレスボトルに入れて持って行く方式に切り替えた。ドリップされたものを飲めたらすごく良いし、長時間勉強する中で寮に帰らずコーヒーのお替わりを自動販売機でできることは大きなメリットなのだが、ここまでひどいとさすがに仕方ない。9月頃に壊れた他の自動販売機の学生証認証システムも壊れたままだ。こちらは自動販売機の管理会社に直す気がないというのも問題だ。お陰で皆25セントを貸し借りしたり、1ドル紙幣やコインを常に持ち歩くようにしていなければならなくなっている。

アメリカは先進国だし、当然自動販売機等の便利なサービスが享受できる環境にあるのだが、そのメンテナンスやオペレーションが劣悪なために、途上国の何もない町等で過ごす場合よりも期待を持ってしまう。そして、そのサービスが享受できないと分かった時点での落胆度合は端からそれが得られないと割り切っていた場合に比べてとても大きい。特に自動販売機のような日常的に利用したいものが機能不全になっている場合には、気持ちのダメージが大きい。
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図書館で1学期勉強してきて思ったこととして、日本の大学の図書館と違ってデスクで寝ている人がいないというのがある。そういう訳で、表題は皆一睡もせず勉強しているという意味ではなく、図書館での勉強中に寝たりしないという意味だ。自分は夜結構寝る方なので授業中や図書館での勉強中には眠くならない方なのだが、それでも学生時代や社会人になってからの資格試験の勉強のために通った大学の図書館では周りの雰囲気に乗じて時々寝ていた。

しかし、少なくともFletcherに来てからは日本人以外でGinn Libraryで寝ている人を見たことがない。日本人はこれまで図書館で勉強してきた経験からか、それがアメリカの図書館であっても寝てしまうようなのだが、他国の学生は皆起きてせっせと勉強している。もちろんいつも100%真面目に勉強している訳ではなく、音楽を聞いたりネット上の動画を観たりしていることが後ろを通るときにPCの画面を覗くと分かるのだが、少なくとも起きている。

この理由がどこにあるのか考えてみたのだが、もしかすると日本がとても平和ということがあるのかもしれないと思った。日本では電車の中で寝ることも平気だし、酔いつぶれて人のいない終電車に乗っていたりしない限りはスリに遭うこともない。卓越した人は降車駅の名前だけは睡眠中でも聞き分けて、さっと起きて降りる術さえ身につけている。しかしながら、アメリカの電車で眠っている人は図書館で眠っている人と同様にまだ一度も見たことがない。公共スペースで寝ていると襲われたり金を取られたりするという危機感が定着しているのかもしれない。

Ginn LibraryはFletcher専用の図書館で顔見知りの大学院生しか周りにはいないため、犯罪に遭うことは恐らくないのだが、それでも小さい頃から植え付けられている常識が機能しているのかもしれない。どこでも居眠りできる日本は平和だし良い国だと思う。最近はそんなことを思いながら少し郷愁さえ沸いてくる。図書館についても、大学の図書館の雰囲気や隣接した学生食堂、キャンパス近くにあるうどん屋で敢えて食べるカツ丼等、色々懐かしいものが思い起こされる。帰国時には大学の図書館に寄って居眠りしてみようかな。

こういうくだらないことを考えながら、今日なんとかE240 Development Economicsのレポートを終わらせた。明日から日曜日にかけては25ページのD220 Process of International Negotiationのレポートを書かなければならない。進捗は現在8ページ。とほほ。。。
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Thanks Givingの休暇も終わり、今日からまた授業の日々に戻ってしまった。25ページのペーパーを来週月曜までに仕上げないといけないのだが、今日時点で6ページ。他の試験も迫ってきているし、明日は最低でも10ページには到達するようにがんばらないといけない。

勉強と全く関係ない内容で暇そうに見えてしまうかもしれないが、今日は寮に住んでいるインドネシア人と先日話したオードリーヘプバーンに関する認識の違いについて書いておきたい。オードリーヘプバーンと言えばオスカーも取った世界的に有名な女優なので、国籍を問わず誰もが知っていると思っていた。特にそのインドネシア人は本よりも映画が好きで、国内映画があまり普及していないインドネシアで育ったこともあって洋画にかなり詳しいので、当たり前のように話ができると思っていた。逆にすごくマニアックな短編映画のウンチクをたれられるんじゃないかとびびっていたぐらいだ。

そんな彼でもオードリーヘプバーンは知らないらしい。日本だったらそんなことはあり得ないのに。知らないはずはないと思って「バケーションインローマ」とか「ブレックファーストアットティファニー」とか、合ってるかどうか分からない直訳で映画のタイトルをいくつか言ってみたのだが、それでも分からなかった。変な訳のせいで映画のタイトルが分からなかったとしたら自分のせいなのだが、ヘプバーンの名前そのものにピンと来ていなかったので、本当に知らないのだと思う。

オードリーヘプバーンの容姿は日本人に特に受けたという話を聞いたことがあるので、もしかすると世界の中でも日本は特別に親近感を持っているのかもしれない。お笑い芸人までこの人から名前をもらうくらいだし、完全に国民的なスターだと思う。関係ないが、ヘボン式ローマ字を考案したヘボン氏の本名はヘプバーンだそう。いくらなんでも聞いたまんまカタカナにしすぎだと思う。こういうのが積み重なってカタカナ英語と実際の英語の発音に差がどんどん出てしまうのだ。そして日本人留学生は現地でその違いを多数知って苦労する。
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